昭和49年04月02日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 どう云う風に一心と定めるかと、大きな信心となら言われるから、小さな信心もある訳である。だから、大きな信心とは、小さな信心とは、どう云う様な事を言うのか。大きな信心には行き詰まりがないと言われておる。小さな信心は行き詰まる。だからまあ真の信心を目指すと云う信心は、私は大きな信心だと思う。ただ御利益おかげだけを願う信心は小さな信心だと、真の信心には行き詰まりがない。
 おかげ信心には必ず行き詰まりが来る。勿論そう云う小さな信心から段々大きくなって行くのですけれども、まあ解りやすく言うとそう云う風に頂く。私今日一心と定めると云う事。昨日十二時過ぎにここへ出て、お礼をさせて頂いた。あるなんか大変急なことを頂きましたから、御神前に出らせて頂いた。まあその方は、今まあ言うならば大変難儀をしておる。その人の事を頂いたから、神様にそのお願いに出てきた。
 そしたら御神眼に『碁盤ですね碁盤、碁将棋の碁盤、碁盤に白と黒の石が丁度半分半分にこう乗っておる所』を頂いた。私はもうそれを頂いてからもうひやっとしたです。例えばあの碁盤の上に白と黒をキチッと並べてご覧なさい。これは白黒です白黒と言う事は死を意味する事です。それで尚お願いさせて頂よりましたら『その黒の石が白の石に打ち勝って、ずうっと黒で攻めて隅の方に、も少しばっかり白が残っておると云う所を頂いた。言うなら、白の石が段々黒に追い詰められてね。
 もうこの角の所へ少しばっかりな白い石になっておる所』を頂いた。私はそれを頂いて、本当に信心ちゃ有難いが同時に言うなら、真の信心をしなければいけないなと思いました。いわゆる真の信心には今申します様に行き詰まりが無い。例えば私共は様々な苦労がありますけれども、それを苦労とは言わない。修行と言う信心させて頂く者は、それを本当な信心を判らせて頂く為の、又はおかげ頂かせて頂く為の修行と言う。苦労の事を修行と言うそこでその方がです。
 もう本当に長い間まあ言うなら、かん難辛苦をしておられますけれどもです。そのかん難辛苦を感ずる為に、それを修行で元気な心で受けて行ってさえおればです。もう絶対白が負けて行きよるちゃ。もう大体言うならもうこれが病気で言うならば、『死ぬる』と云うお知らせでしょう。これが他の難儀な問題であってもおかげにならんと云う事でしょう。白黒と云うのは。けれどもその痛かっても苦しかってもです。
 本当に巡りのお取り払いを頂いて有難いとか、今こそ良い信心を判らして頂きよりますと言うて、お礼を言うて行く様な生き方で攻めて行くもんですから、もう白が僅かになっている所、「はあ、これはまあ一押しだと」この碁盤一面に、黒の碁石が並んだ時こそがです、いわゆる修行完了の時であると同時にです。その方が愈々力と共に、修行の後には必ず力が頂かれるものです。徳が受けられる。力を受け徳を受けて、言わばおかげの世界に出る時だなと思って、改めて有難なって来た。
 皆さんが様々な修行を致します。けれども私は金光様の信心は何処までも、そうして成行きの中に起きて来る様々な難儀をです。難儀とせずに修行と受けて行くと云う、いわゆる「やれ痛や、今みかげを」と云う心で受けて行く以外にないです。そうしてさえ受けて行けばもう絶対、いわゆる白が負けです。消えて行くです。そこにその巡りの大きい人、巡りの浅い人、色々ありましょうけれどもです。だから是程信心するのにと云う様な心は起きて来ない。神様は此の様にして判らして下さる。
 神様は此の様にして修行さして下さる。と云う頂き方になって来ると云う事がです。私今日の御理解から云うと大きな信心だと行き詰まりが無い。だからそう言う信心を頂き切らずただ拝む事ばっかり拝んだっちゃ、水ばっかりかぶったっちゃ断食ばっかりしたっちゃそげな事ではいかんと言う事です。その事も私は昨夜一緒に頂いたんですけれども、是は又ある人の事でした。お願いさせて貰いよりましたら汚い大きな縄です。縄がねそれで帯をしているような感じですけれどもそれにこう注連が下がっている。
 普通の縄に注連縄と言うのは初めから注連縄になった物ですわね。この石庭の天地岩にかかっているあれが本当の注連です。注連と言う事はどう云う事かと言うと、言わばこれ以上汚くはされんと言った注連を張る。不浄が入っちゃならんと言う時にあの注連は、注連縄と言う物は張るものです。言うなら修行も本当の修行でも油断なくさして頂いとる時ですけれどもです。
 例えばね如何に断食した所で、如何に水かぶった所でですよ、その真の信心がおろそかになって居るなら、それは丁度腐れ縄の帯をして、それにこうやって藁すぼが下がっちょるけれども、それは本当の修行じゃないと云う事が解るでしょ。例えばねそう云う例えば修行させてもらって、はあ例えば断食なら断食しておる時に、はあひもじいなとか苦しいなとか、是は表行のすべてに言えれる事です。「じゅつない」と云う時には、それはもう言うなら、ほんな修行じゃない時です。
 云うなら腐れ縄の注連下げとる様なもんです。言うなら最近の御理解のあれを借りると、却って自分をがんじがらめに窮屈にしておるとです。自分から進んで。修行と云うのは、大体苦労とか窮屈な、と云う事もありますけれども、有難く受けて行けてこそ初めて、又元気な心で本当に頂いてこそ、それが修行になるのです。修行の為に自分を窮屈に見せたり、したりするのであっては、それこそ自分で自分の首に縄を掛けておる様なもんです。お酒ならお酒を飲む人が禁酒する。
 そりゃあ成程、その酒がもしその人の生活の上にマイナスになるなら、是は本気で一つ止めにゃいかん。酒を飲む事が人に迷惑を掛けたりするなら、それは本気で止めにゃいかん。けれどもただ有難く楽しゅう頂けるお酒なら止める必要はないでしょう。金光様の御信心は好きな物を食べるななんてんの修行じゃないです。適量に頂く頂いてこそ神様は喜んで下さるのです。それを飲もうごとして応えんばってん辛抱しとると云うのは、自分で自分を言うならば縄で縛っておる様な修行でしょうが。
 だから私共はそう云う修行しちゃ詰らん。表行がいかんちゅうのじゃないですよ、表行をさせてね、それこそ「表行の有難さが判らなければ、心行の有難さがわからん」とさえ言われる位ですから、その過程としてはいいけれどもね、踏み行のうて行く生活の中にです。ふしだらな事しておったり、間違った行き方をして、ただ表行だけに打ち込んで神様と近付こうとしたって、それは無理な話です。
 それは私共は何時も注連縄を張ってる訳です。例えば御結界畳み半畳の中に、注連縄張ってさあここへ座ったが最後は動かんぞと言う様な気持ちで居る訳です。けれどもそれが私は有難いんです。だから不浄が入って来んのです。不浄と言う事は成就しないと言う事がないです。必ず願いが成就すると云う、言うならば確信も持てれる訳です。是は自分を窮屈にしている事でも何でもない。是は本当の修行。
 今日は特に皆さんに碁盤の例を以て、その苦労を苦労とせずにそれを修行として受けて、受けて受け抜いて行く時にです。白の碁石は段々少なくなって行く。そこに修行の成就と言う事があるのです。是は病気だけの事じゃありません様々な難儀、一切の難儀に通ずる事です。その難儀と云う事は丁度貴方の場合はね、どげんしたっちや賑やかになられん。白と黒の言うならば死を意味するような難儀の中にあるのです。
 そこで信心さして頂く者はそれを苦労を苦労とせずに修行として又そこの道理が判らせて頂く、言うなら「信心さして頂く者のは肉眼を置いて心眼を開け」と仰る様にです心の眼が段々開けて来ると、それはおかげであると解って来るです。それが神愛の現れである事が解って来るですだから有難いです。昨日私は御夢を頂いておった、それは『自分が相撲を取っておりながら、それを自分で見ておると云う様な、私はもう是は例えば土俵の、土俵を割らんばかりにして取っておるのです。
 もう向こうも大変強い。こっちも大変まあ私は強いとこです、それで仲々勝負が付かんで愈々土俵際まで来た時にですね。私がそれを見よってからです、私がその投げ方がね、もうそれこそ身体が土俵の外に出とる様にあるけれども、足の方がちゃんと土俵の中にある。そしてこうやって投げるでしょうが普通、それがね大変な力の要る事だなと思ったのはね、例えば是をこうやってうっちやるとならば、うっちゃりと云うのですかあれは、是をね、横にこううっちゃたとこ頂いた。
 とてもあれは大変な力の要る事だと、そして愈々の所でうっちゃった』と云うその御夢を、自分が取りよって自分が見ておると云う様なお夢であった。もう愈々難しか愈々駄目だと、例えば言うような時であっても、今日私が言う様な信心を皆さんがなさるなら、愈々うっちゃりの所で必ず勝つ事が出来るんです。もう愈々難しかてなんてん言う心起ってこん。それには今日言うならば、大きな信心をせなければ出来ない。大きな信心とは行き詰まりのない信心。
 それがなら今日私が申します様な内容が解らなければです。やはり難儀は難儀で感じます。本当の事が解るから心の眼を以て見ると、それが本当にここで不平とも不足とも、言わば弱音ども吐きよったんじゃ相済まん。勿体ないと云う事になって行くのです。そしてどんなに白を巡りとするならばです。その白を攻めて攻めて攻め上げてです。いわゆる黒一色にしてしまう。修行一色にしてしまう。そこに修行の成就があって、所謂おかげの世界、徳の世界力の世界、光の世界と様々に言えるでいょう。
 ですからそう云うおかげの頂けるための修行ですから、もう実に楽しゅう、またはね如何にそれは歯を食いしばらんならん様にきつい事もありましようけれども、きついけれども有難いと云う事になって来る訳です。そう云う信心が、私は大きな信心だと思うのです。「一心と定めい」と言う事は、私の行く手に絶対起きて来る一切が神愛だと、一心に定めると言う事なのです。昨夜私今申します様に、夜の御祈念を終わってから一寸捜し物をしたいと思うて事務所で探しますけどもないです。
 それで隅から隅からこうやって見よったら、机の一番向こうの一番暗い所に、電気が点いとったっちゃ分からんごたる所に、この本が置いてあるのか落ちておるのか知らんけども置いちゃあったです。こう見たら何か黒うしとるから、引き出して見たらこの本がありました。是はひょっとすると明日の御理解の材料かも知れんなと私思たんです。まだその内容は何も読んでおらんですけども「生き残る人々」とあります。私がここ毎日の様にいっておる事が是でしょうが。
 こげな本がどうして、あげんとこに置いてあったじゃろかうと私思います。イージィー・ホワイトと云う人が書いとるんです。最近私がね二十五年後の、例えばある人の予言が的確に当って、人間と云う人間が全部死んでしまう。生物と云う生物が死んでしまうと云う様な事になって来ると云う様な予言をしておる人。けれども私が言う様な生き方になりさえすりゃ、私が絶対生き残る事が出来ると云う、なら予言をしておる訳です私は。ですからなら私どもが本当に生き残る人々にならなければならない。
 為には私が今日申します。小さい信心じゃ駄目、大きな信心さして貰わにゃいけん。大きな信心とはおかげ、おかげを頂いちゃならんと言う事じゃないですよ、真の信心には絶対おかげが付いて来るとです。けれどもその真の所謂おかげを頂くと云う事じゃなくて、信心を頂くと云う一心を一つ定めなければいけん。その定める内容を、今日は皆さんに聞いて頂いたんです。何故定めなければならないかと云う事を聞いて頂いたんです。又一心にそこの所が解って定めたらです。
 そんなら苦労も苦労とせんでも済むおかげが頂けれる事を聞いて頂いたんです。成程これなら、自分で自分の首をしめる様な、そう云う生き方のする人は、恐らく残らないだろうけれどもますます、言うならば広がりに広がって行くと云う生き方こそです。今日の御理解が内容となって来るとね、行き詰まると言う事がないもの全然。行き詰まりのないそう云う信心を身につけて行く者の上に、私は生き残る人々と言う事になるのだと言う風に思います。どうぞ今日の五十二節をそう云う風な意味で聞いて頂いた。
 例えば白と黒との碁石の事。それからあの腐ったような縄で何かがぶら下がって、注連じゃなくって本当の注連を張らなければ、自分の張らなければいけない事。腐った様ないうなら修行はね自分を愈々苦しくしていき、窮屈にしていく得る物はないと言う事。それからあのそう云う信心を続けていければ、所謂私が御夢の中で頂いた、もう土俵のもう所謂割らんばかりの所に来とっても、必ずうっちゃる事が出来る様なおかげが受けられる事。そう云う信心の内容としておかげを頂かなければならない。
 これはどうでもそこの所のおかげを頂かなければです。まあ今世間である意味で、その静かな騒ぎがあっておる様にですね。二十五年後には地球がどうなるか解らんぞと云う様な、まだ二十五年もあるからまあ案外呑気にしておる様なけれども、矢張り何処にかそう云う私共の心も不安定な時に当たってです。だから私が申します様な信心を本気で身に付けよう、稽古させて頂こうと言う気になったら、生まれて来るのは明るいもの安心。言うなら安定した生活、信心生活が出来る訳であります。
   どうぞ。